3 殺人の手段と結果

3.1 共通知識

 各殺人の手段において共通する、死そのものに関する内容を記載する。

3.1.1 死の定義

 そもそも死とは、古典的には、個体の生命を維持するのに必要不可欠な要素である酸素が取り去られた状態、つまり酸素を体外から摂取する肺、摂取された酸素を全身に分配する心臓、これらの臓器の機能を制御する脳のうち、いずれか1つが永続的(不可逆的)機能停止した状態をいう。ただし、近年は代用臓器の進歩により説明できない状態があり、脳が永続的(不可逆的)機能停止した状態をいう。 さらに、全脳が永続的(不可逆的)機能停止した状態を脳死と呼び、深昏睡、自発呼吸の消失、瞳孔固定、脳幹反射の消失、平坦脳波、時間経過をもって判定する。

3.1.2 死体現象

 死体現象とは、死の直後から始まる人体に起こってくるすべての物理的、化学的および生物学的変化をいう。死直後より現れる現象を早期死体現象、比較的後期に現れる現象を晩期死体現象というが、区別は厳密ではない。死体現象は、死後経過時間の推定や、死因の判断に役立つことがあるが、死体を取り巻く環境条件や死体そのものの条件によって複雑に影響される。

死体現象
3.1.2.1 冷却、体温降下
 死体の温度が、死後経過時間とともに生前の体温よりも低下する現象を死体の冷却あるいは体温降下という。通常、死体温は棒状の温度計の感熱部を直腸内に5cm以上挿入して直腸温を測定する。死亡直後の体温を37℃、気温を15~20℃とすると、1時間におよそ0.5~1.0℃の割合で下降し、死後約24時間でほぼ環境の温度と等しくなる。一般に、死直後の降下速度は緩やかで、その後12時間くらいまでは急速に降下していき、12時間を過ぎるとまた降下速度がゆるやかになる、逆S字状の傾向を示す。

 死体の冷却に影響する因子は、周囲の環境、着衣、体格・年齢、死因の4つがある。

冷却速度を遅らせる因子 冷却速度を速める因子
環境
  • 暖房の存在
  • 湿度が高く、通気性の悪い環境(船倉など)
  • 着衣のある死体
  • 体表が乾燥している死体
  • 布団の中の死体
  • 水中や土中の死体
  • 気温が低く、通気性の良い環境(屋外など)
  • 裸体
  • 体表が湿潤状態の死体
  • コンクリートや金属の上に横たわっている死体
状態
  • 女性、青壮年、強壮者、肥満者
  • 死戦期に高体温になる状態(頭部外傷、脳卒中、日射病、熱射病、肺炎、敗血病、その他の熱性疾患、覚せい剤中毒、睡眠薬中毒、ストリキニーネ中毒、破傷風など)
  • 男性、老人や乳幼児、虚弱者、痩せている人
  • 死戦期に低体温になる状態(凍死、コレラ)

 死後経過時間の推定方法は2つある。

  1. 簡便法
  2.  ある時点での直腸温と体温(37℃)の差を、その時点での外気温、ならびに冷却速度に影響を与える因子を考慮して、下降平均温度(1時間に下降すると見込まれた温度)で除することによって算出する方法。死体検案開始時の直腸温と一定時間後の直腸温から下降平均温度を求める方法もある。
  3. 2度測定法
  4.  種々の条件のもとに、下降グラフ曲線を作成しておいて、これに死体の直腸温を当てはめて(2点測定)、死後経過時間を求める方法。
 顔や手の露出した部分は1時間もすれば冷たくなる。死体の腕の下に自分の手を入れて、温かければ死後数時間、完全に冷たくなっていれば死後18時間以上経過している。
3.1.2.2 乾燥

 死後水分が補給されなくなるので、死体の種々の部分は乾燥していく。

  1. 角膜混濁
  2.  死後数時間で角膜の混濁が始まり、半日~1日で霞がかかったように全般的に混濁し、1日半~2日くらいで強い白濁のため瞳孔を透見しえなくなる。開眼状態や夏季は早く、閉眼状態や冬季は遅い。乾燥がさらに進むと、眼球は軟らかくなってクシャッと潰れたようになる。
  3. 体表の乾燥
  4.  皮膚は次第に乾燥する。特に、生前または死後にできた表皮剥脱部、火傷や湯傷の部、頸部の絞・扼によって生じた表皮剥脱部、刺切創の創角や創縁では乾燥が著明で、死後経過とともに黄色、褐色、暗褐色となり、なめし皮のように固くなる(革皮様化)。また、外部に露出している粘膜部(眼瞼、眼球結膜、陰嚢、陰唇、口唇など)は皮膚部よりも乾燥しやすく、幼児、とくに新生児は成人に比較して健常の皮膚でも乾燥が著明で、とくに頸部、腋窩部(わきの下)、鼠径部(足の付け根)、会陰部(陰部と尻の間)などでこれらが顕著である。
3.1.2.3 血液凝固と線溶現象
 緩徐な経過で死亡した場合、死体の血液は凝固しているのが一般的であり、剖検時に心臓血が流動性であれば、急死を疑わせる所見とみるのが通常。緩徐な経過の場合、血漿内にある凝固因子が活性化され、連鎖反応を起こし最終的にフィブリノーゲンがフィブリンに転換され凝固するとされているが、急死の場合、活性化物質が発生して凝血を再融解するとされる。
3.1.2.4 死斑、血液就下
 死後血液循環が停止すると、血管内の血液は重力に従い身体下面の毛細血管に沈下、集合する。この現象を血液就下といい、これが外表から認められるようになったものを死斑という。圧迫されている部の血管には血液が集合しないので被圧迫部に死斑は形成されない。
 死斑は、一般的には早いもので死後30分、ふつうは1~2時間で斑状に発現し、斑紋が次第に融合して5~6時間で著明になる。死後4~5時間で死体の姿勢を変化させると、いったん発現していた死斑は消えて、新しく死体の下位になった部位に発現する(死斑の移動)。死後8~10時間では、死体の姿勢を変化させても前に発現した死斑は残存し、新しく死体の下位になった部位にも発現する(両側性死斑)。このとき、死斑を指頭やピンセット柄で圧迫すると、その部分の死斑は消えるか色調が薄くなり、死後経過時間の推定に使われる。死斑は15時間ほどで最高に達する。指圧によって死斑は消退しにくくなり、20時間以上経過した死斑は完全に退色しなくなる(浸潤性死斑)。急死や窒息死の場合、死体血液は流動性なので死斑は早く強く発現し、血管内に凝血の存在する場合は発現が遅く、失血死のように血液量の少ない場合は発現が遅く、程度も弱くなる。漂流死体のように死体の姿勢が変動する場合は発現しない場合が多い。
 死斑は死体のとる姿勢の下面に発現する。左右耳介の死斑発現の強弱を比較することにより、死後の顔面の傾きを推定することができる。

 死斑の色調は通常、暗紫赤色を呈するが、次の死因の場合は異なる。

  1. 一酸化炭素中毒: 鮮紅色調
  2. 青酸中毒: 紅色調(ならないことも多い)
  3. 凍死: 紅色調
  4. 亜硝酸ソーダ中毒や塩素酸カリ中毒: 灰褐色調
  5. 硫化水素中毒や腐敗した場合: 緑青色調
3.1.2.5 死体硬直
 死亡直後、死体は弛緩状態になるが、死後時間の経過とともに筋肉は次第に固くなり強直する(死体硬直)。一定時間後、硬直した筋肉は自然に弛緩する(硬直の緩解)。筋肉内のATP(筋肉を動かすエネルギー源)の濃度の減少により硬直が発生し、タンパク分解酵素の作用により緩解されるとされる。
 死体硬直は通常2~3時間で発現する。発現順序は一般的には顎関節、上肢の関節、下肢の関節へと進み、6~8時間で全身の諸間接におよび、死後15時間くらいで最高に達し、24~30時間くらいまで持続する。死後30時間以上経過すると、硬直の始まった順序で緩解し、夏季は2~3日、春秋期は3~4日、冬季は4~7日で完全に緩解する。まれに硬直の発現順序が逆行する場合がある。死後の直前に筋肉の強い緊張があった場合、死亡直後から硬直が見られる強硬性死体硬直(即時性死体硬直)が見られる。
 一度生じた硬直は、検死時などに人為的な外力を間接に作用させると緩解する。死後5~6時間以内であれば、人為的に緩解した筋肉には再び弱い硬直が発現する(再硬直)。しかし、死後6~8時間以上経過した後では、再硬直は発現しない。

 死後硬直は、次の因子に大きく影響される。

  1. 環境温度が高いほど硬直の発現は早く、かつ持続時間も短い。
  2. 筋肉が発達しているほど、硬直が早く著明に発現し、かつ長時間持続する。
  3. 死亡前に筋肉の痙攣を伴った場合や、破傷風などの急性熱疾患およびストリキニーネ中毒では硬直が早く強く発現する。黄リン(猫いらず)中毒や敗血症では硬直の程度は弱い。
 その他、心筋の硬直は骨格筋と比べて経過が早く、死後約30~1時間で発現し、6~8時間で最高に達し、20時間くらいではすでに緩解している。凍死体や溺死体では、死体皮膚表面に立毛筋の硬直による鳥肌(鵞皮)が見られる場合がある。瞳孔は死後直後に拡大するが、光彩筋の硬直によって若干縮小し一定になる。精液の漏出は窒息時における痙攣によるものが一般的であるが、精嚢筋が硬直することにより発生する場合もある。
3.1.2.6 自家融解
 組織細胞が死に至ると、これらのもつ酵素により細胞構成成分が分解される。顕微鏡的な自家融解現象としては、細胞の膨化、核の染色性低下などがある。肉眼的に認められる自家融解現象としては、赤血球の溶血により血管壁や周辺組織にヘモグロビンが、胆嚢周囲に胆汁色素が染着する。また、胃粘膜は自己消化され、胃壁が薄くなったり、穿孔をきたす。とくに、脳損傷や脳出血の場合に胃の穿孔を生じることがある。子宮内で胎児が死亡すると、その胎児は暗赤褐色を呈し、ヌルヌルした状態になっている(浸軟児)。
3.1.2.7 腐敗
 微生物、特に腐敗菌の作用によって人体を構成しているタンパク質や有機化合物が分解され、芳香族アミンや硫化水素ガスなどを生成して有機物の状態から無機物の状態へと徐々に変化していく過程を腐敗という。腐敗の原因となる微生物は、生前から消化管内に常在している腸内細菌(初期に作用し、大腸菌や腸球菌など)と周囲の環境から死体に侵入する細菌類(末期に作用し、枯草菌や馬鈴薯菌など)がある。ウェルシュ菌はいずれの環境にも存在し、多くの腐敗ガスを発生する。

 腐敗現象の進行速度は、環境の外的条件と死体の内的条件に影響される。

腐敗を抑制する因子 腐敗を促進する因子
外的条件
  • 密閉された状態、乾燥空気中、水中
  • 低温(5℃以下)は強く抑制される
  • 金属や石の床に横たわっている
  • 適度な空気の流通、湿度、温度(20~30℃)
内的条件
  • 失血死のように全身の血液量が少ない
  • 飢餓死や悪液質(脂肪と筋肉が減少)
  • 男性、老人
  • ぴっちりと密着した服装
  • 失血を伴わない急死(特に窒息死や敗血症のような全身感染症)
  • 栄養状態が良好な人
  • 女性、若年者
 Casperの法則によると、地上での腐敗状態を1とした場合、水中ではその約2倍、土中では約8倍の期間を要するという。また、器官、新生児の脳、胃、腸、脾、大網と腸間膜、肝、成人の脳、心、肺、賢、膀胱、食道、膵、横隔膜、血管、子宮、腱、靭帯、骨の順序で腐敗が進むという。胃粘膜および膵臓の死後融解と、脾臓および肝臓の腐敗変色が最も早く出現するという話もある。
 死後1~2日経過すると下腹部が緑青色に変色し始め、やがて腹部全体に広がり、ついには全身に及ぶが、これを腐敗変色という。この変色は、腐敗のため発生した硫化水素が血液中のヘモグロビンと結合して硫化ヘモグロビンおよび硫化メトヘモグロビンを形成するためである。
 死後2~3日経過すると皮膚の表在静脈周囲にヘモグロビンや硫化ヘモグロビンが浸潤するため、暗赤色ないし緑青色の樹枝状血管模様が肩部、上胸部、下腹部および下肢部の血管の走行に一致して認められ、これを腐敗網という。
 腐敗が進行すると硫化水素、炭酸ガス、窒素、メタン、アンモニア、メルカプタン、インドールなどを含有する腐敗ガスが発生する。この中で、硫化水素やインドールなどが死体特有の腐敗臭を放つ。腐敗ガスは最初腸管内に発生するが、次第に腹腔内、全身の皮下組織、実質臓器内にも発生していく。腐敗ガスや皮下組織や筋肉内に発生すると、皮下に気腫を蝕知できるようになり、陰嚢はゴム風船のように膨れ、口唇は厚く膨れて外翻するなど、全身がガスで膨満し、巨人様観を呈する。目が飛び出し、舌が膨れ歯の間から突き出る。胃や肺から逆流した血液など様々な液体が、鼻と口から出てくる。敗血症を患っていると冷凍保存しても6~12時間で5~6日経過した腐敗と同じぐらいになる。
 死体を地中に埋めた場合、30cm以上深く埋めると腐敗臭が地上に上がらないとされる。
3.1.2.8 死体の損壊
 地上に放置された死体や水中死体では、種々の動物による損壊や物理的破壊によって死体の崩壊が促進される。

 地上に放置された死体では、動物による損壊が主である。

  1. ハエ・うじ虫による損壊
  2.  ハエは死臭を好み死後遅くとも30分くらいで死体に蝟集する。眼、鼻、口、耳、肛門、陰部などの粘膜部分で湿潤なところに好んで産卵する。死体に産卵するのはキンバエ族が最も多い。産卵後10~24時間で孵化してうじ虫となり、種々のタンパク分解酵素などを分泌して死体組織を化学的に分解して蚕食する。皮下軟部組織から蚕食し始め、最終的に皮膚をも蚕食し多数の小孔を形成することがある。うじ虫は最長1.2cmくらいになり、8~14日で蛹化する。蛹は12~14日で羽化し、成虫となったハエはさらに産卵してうじ虫を生じ、数代にわたって死体を蚕食する。毛髪、爪、骨などの硬組織以外はすべて蚕食され、胎児死体は3日間、成人死体は10日間でほとんど白骨化した例がある。うじ虫の体長を計測して、測定値から死後経過時間を推定する場合がある。
  3. その他の動物による損壊
  4.  げっ歯類、カラスやトンビなどの鳥類、アリ、ムカデ、ゴキブリ、カツオブシ虫などの昆虫類などによって損壊される。これら動物によって生じた死体の損壊が、生前に受けた傷と誤認されることがあるので鑑別が重要とされる。例えば、アリによって皮膚が蚕食され乾燥すると、生前に受傷した表皮剥脱と紛らわしくなる。

 水中死体では、物理的破壊と水生動物による損壊が起きる。

  1. 他物体との接触衝突による損壊
  2.  水中を漂流する際に、岩石や小石などに衝突して生じる損壊は前額部、肘頭部、膝蓋部などに生じやすい。骨が露呈している場合には、砂などによって骨の先端部が摩耗していることもある。また、漂流死体では、船舶のスクリューによる割創様の損傷(スクリュー創)が認められることがある。
  3. 水生動物による損壊
  4.  エビ、カニ、魚類が死体を蚕食する。スナホリムシモドキという水生小動物によって蚕食された死体は1夜で白骨化したという。
3.1.2.9 白骨化およびその他の現象
 死体現象の最後に起きる、白骨化、ミイラ化、死ろう化について説明する。

3.1.2.9.1 白骨化
 白骨化に要する時間は、死体のおかれた環境条件によって著しい差があるが、一般的には地上で半年~1年、土中で3~4年かかってほぼ白骨化し、完全に白骨化するには5年以上を要すると言われている。さらに年数を経ると、骨も風化、崩壊し、アルカリ性土壌ではその進行が速いと言われている。しかし、砂土内に放置するなど、環境によっては数百年あるいはそれ以上原形を保っていることもある。
 通常は比較的長期間形態を保持している毛髪が短時間内に崩壊していることがある。このような場合は、毛髪の主成分であるケラチンを栄養源としている土壌内の真菌などの作用による可能性がある。

3.1.2.9.2 ミイラ化
 死体が乾燥しやすく、風通しの良い状況下に置かれると、死体から水分が急速に失われ、体内水分が50%以下になると(2)腐敗の進行が停止してミイラ化することがある。皮膚は褐色~暗褐色調で革皮様化しており、体重は著減する。
 一般的にミイラ化するのに成人では約3ヵ月程度、小児では2~3週間程度を要すると言われる。しかし、通常は腐敗の進行とともに乾燥することが多いため、完全なミイラ化はまれであり、顔面、上肢、下肢などの部分的ミイラ化現象が多い。
 ミイラ化しやすい条件としては高温で通風性がよく乾燥している場所に放置されていること、周囲に吸湿性の物質(着衣、土砂など)があること、乳幼児やるい痩死体、死亡時に脱水状態にあった死体などがある。

3.1.2.9.3 死ろう化
 死体が水中や湿った土中で、空気の流通が悪い状態にあると、死体内の脂肪が変化し、灰白色~黄褐色調で、硬さは軟らかいチーズ様から石膏様に硬化する、死ろう化することがある。
 死ろうの成因は、常温で液状の不飽和脂肪酸(主にオレイン酸)がバクテリアの酵素により、10-オキソ脂肪酸に変わるためと、中性脂肪が加水分解され生成された脂肪酸がアルカリ土壌と結合してけん化するためである。いずれの機序によるにしても、水中では死後約1ヵ月くらいで、土中では数ヵ月で死ろう化が始まり、全身の死ろう化には水中では半年~1年、土中では2~3年を要するという。
 男性よりも脂肪分の多い女性のほうがなりやすい。内臓は腐敗により融解し、脂肪分の多い臀部、胴体に見られ四肢の先端や顔面は白骨化していることが多い。

3.1.3 人体の限界

 実際に下調べした殺人者は少ないと思われるが、殺人においては、人体が何に耐えられるのか、どこまで耐えられるのかを把握しておくことは重要だと思われる。
3.1.3.1 高度
 人間は急激に高度を上げると、高山病により幻覚を引き起こしたり、低酸素症により意識を失い昏睡状態となる。高山病は8~48時間後に始まり、頭がくらくらしたり、気分が高揚した後、倦怠感、頭痛、胸のむかつき、網膜の出血を引き起こす。通常は数日でおさまるが、肺浮腫や脳浮腫になって昏睡状態に陥ることもある。
 高所は気圧が低く、酸素が薄い。さらに、体内で大量の水蒸気が発生し肺を満たすため、大気圧中の酸素濃度より低くなる。この水蒸気の濃度は、海面では6%、エベレストの山頂では19%を占める。体を動かすには酸素が必要なので、標高8000mでは地上の4割以下の効率でしか体を動かせない。また、純粋酸素を吸いながら肺の正常な酸素濃度を維持できるのは高度14000mとされ、130hPaに相当する。高度18900m以上では、体温で血液が沸騰する。なお、民間航空機は高度1500~2400m相当の気圧になるように機内を加圧しているので、空気の濃度の酸素でも肺の酸素濃度を維持できる。
 人間が定住している最も高い場所は、アンデスの採鉱の町で、標高5340mである。空気中の酸素濃度が低く、寒さ、脱水症状、強烈な太陽放射の影響から、この標高が限界とされる。標高4000mであっても、低地からの移住者が産んだ子供は例外なく死産か短期間で死亡した。気球で急激に10000mまで上昇したケースでは、重度の低酸素症に陥り、手足が麻痺し、目が見えなくなり、声も出なくなり、やがて意識を失った。ただし、直ちに影響が出るのは「急激に」高度を上げた場合である。中間の高度で数週間過ごして体を慣らせば、エベレストの登頂者のように、2、3時間の時間制限(デス・ゾーン)があるが標高8000mまで登ることも可能である。
3.1.3.2 水深
 水中に潜る際に問題になるのは、空気と水圧である。水は空気の1300倍重いため、同じ垂直距離移動したとしても、水中の方が圧力の影響が大きい。
 水中で圧縮空気により呼吸していた人が急激に減圧すると、血液中や筋肉組織に溶けている窒素が気泡になり、毛細血管を詰まらせて減圧症(潜水病)を発症し、皮膚のかゆみや、手足の痛みを生じ、ひどい場合には意識喪失から死に至る。ダイバーの間では、気泡ができる場所と症状によって呼称があり、肺が塞がれ息苦しい場合をchokes、三半規管が機能低下し平衡感覚を失う場合をstaggers、膝や肩の関節の場合をbendsと呼ぶ。大脳に気泡ができると視覚や言語能力に影響を及ぼし、死に至ることも少なくない。急激な減圧が問題になるのは10m以上の水深であり、潜水した深さの半分の水深までは急激に浮上しても問題ない。潜水後の12時間以内に飛行機に乗ると、減圧し続けることになり減圧症のリスクが高くなる。短いインターバルで潜水を繰り返す場合も、体内に溶けた窒素を排出しきれないため減圧症のリスクが高くなる。
 水中では体内の空洞に溜まったガスが圧縮される。肺が圧縮されるため、シュノーケリング用のマスクについたチューブを用いて水中で呼吸できるのは水深50cm~1mまでである。また、中耳の気圧を周囲の水圧と同じにしないと、耳が圧迫されて痛くなる。歯の詰め物や虫歯の中に気泡がある場合も、破裂する恐れがある。逆に、水深10mから浮上する際は空気が2倍に膨張するため、息を吐かなければ肺が破裂する恐れがある。
 ある水深から、圧縮空気は毒に変わる。水深50m付近から窒素中毒が始まり、アルコールを摂取したときのように気分が高揚したり幻覚を催し、水深90mで意識を失う。水深70mで純粋酸素を5分間呼吸すると、肺胞の細胞が破壊され、めまいや吐き気、手足の麻痺、癲癇のような発作を生じ、体が激しく痙攣する。圧縮空気を使用しても、安全に潜れる限界は水深30mとされる。二酸化炭素も悪影響を及ぼし、水深10mでは二酸化炭素濃度が6%に上昇してもほとんど影響がないが、水深100mではほとんどが錯乱状態になり、5分以内に意識を失う。ヘリウムと酸素の混合ガスであるヘリオックスであれば、水深30m以上の潜水が可能である。この場合、水深200mを超えると高圧性神経症候群を発症し、体が震え、めまいや吐き気を催し、眠っているような倦怠感を生じる。窒素を混合した特殊な呼吸用ガスを使えば水深450mまでの潜水が可能と推測されている。
 水深200m以上潜る作業者の約20%は骨に壊死している兆候が見られる。また、聴力の低下も見られる。
 フリーダイビングの世界記録は、人力で水深約100m、移動装置を使用して約200mである。呼吸を止める世界記録は約24分。
3.1.3.3 高温
 気温が41℃を超えると、人間の体内のタンパク質は変性し、細胞は回復できないレベルまで損傷する。体温が43℃を超えると命が危険にさらされ、50℃を超えると数分で全身の細胞が死滅する。体は部位ごとに温度が異なるため、体温は胸と腹部の奥深い組織の温度である、中枢温度と定義すべきである。中枢温度は通常37℃前後に保たれているが、41℃を超えると熱中症によって顔の紅潮、頭痛、めまい、いらいら、意識障害、手足の運動障害を引き起こし、42℃を超えると心臓発作を引き起こして死に至る恐れがある。とはいえ体表の体温調節機能が働いているので、空気が極端に乾いている場合なら127℃の部屋で20分耐えたケースもある。一方、火のような極端な高温は、体温調節機能の限界を超えており重度の火傷を負わせる。
 体温調節機能のうち放熱は、「放射」、「伝導」、「対流」、「汗の蒸発」により行われ、気温が32℃以下で風がない環境においては「放射」、「伝導」、「対流」のみで中枢温度を維持できる。外気が体温より高い場合、「汗の蒸発」を使用して普段の20倍の熱を放出することで、中枢温度を維持する。過酷な運動においては、対流による蒸発の促進も重要であり、サイクリングなどで移動時の向かい風によって均衡が保たれている場合に急に停止すると、均衡が崩れて心臓発作を引き起こす恐れがある。また、湿度が75%を超える環境や温水中は、汗が蒸発できないため、中枢温度の上昇と脱水症状を引き起こす。
 水分を摂取せずに脱水症状になると、分泌されたホルモンにより尿が減り、喉の渇きを感じる。やがて、頬がこけ、目元が落ちくぼんで見え、体重も減少する。体内の水分は5~8%が失われると疲労感やめまいを覚え、10%が失われると肉体や精神にダメージを受け、15~25%が失われると命にかかわる。この時、血液量が減って血液の粘性が高まり冷却されにくくなり、体温が上昇しやすくなっている。細胞からも水分が吸い出され、細胞膜や細胞内のタンパク質も損傷する。
 汗をかき体内の塩分が不足すると、腎臓で塩分を保持する量を増やすホルモンが分泌され、尿から排出される塩分を減らす。さらに不足すると、疲労感、倦怠感、頭痛、吐き気を催し、この状態で運動すると手足の筋肉が激しく痙攣することがある。
3.1.3.4 低温
 地球上で観測史上、最も寒かったのは、ロシアのウォストーク基地で観測された-89℃である。高度が100m上がるごとに、気温は1℃下がり、エベレストの山頂はだいたい-40℃以下である。海は地上に比べて暖かく、深海でも2℃前後である。
 裸の場合、外気が25℃以下になると寒さを感じ、生成する熱の量を増やし、体表の毛細血管を収縮し放熱を減らして(肌が白くなる)、中枢温度を維持しようとする。10℃以下になると、体表の組織に運ぶ酸素や栄養分を運ぶため毛細血管が膨張(肌が赤くなる)し、さらに気温が下がると収縮と膨張を交互に繰り返す。手足が局所的に人体組織の融点である-0.5℃以下になると、組織が凍結して凍傷になる。特に、耳、鼻、指、つま先などの末端がなりやすい。軽度では肌の外側の層だけが凍り感覚を失うが、そのうち剥がれ落ちる。重度では肌を温めると青紫色になり膨れ上がり、1~2日で水ぶくれができ、黒くてかたいカサブタになる。筋肉や骨、腱まで凍ると切断が必要になる。-29℃でも風がない場合は防寒着を着ていれば危険がないが、風速4.4m/sの弱い風が伴うと体感温度は-44℃まで下がり、肌の表面は数分で凍り付き、風速11m/sの強い風を伴うと体感温度は-66℃まで下がり、体の肉が30秒以内に凍り始める。-50℃では、温かい血液を循環させても間に合わず、防寒していない露出した肌は1分以内に凍る。肺も、通常は吸った息が気管を通る間に温められるが、あまりに寒いと気管の細胞が凍り、剥がれ落ちて窒息を引き起こす。そこまで寒くない場合でも、神経の機能が弱まり、感覚や筋肉の動きが鈍くなって手先が動きにくくなる。気温12℃くらいで手足の動きが鈍くなり、8℃くらいで触ったときの反応が鈍くなる。
 体の中枢温度が35℃を下回ると低体温症になり、軽度では、体の震え、手の麻痺を生じ、細かい手作業が緩慢になる。中度では、体が激しく震え、筋肉の協調に支障が出て歩くのもやっとになり、言葉も不明瞭になり、思考が緩慢になる。中枢温度が32℃を下回ると体内に蓄積されていたエネルギーが尽きて体の震えが止まり、意識がもうろうとしたまま体を丸める。30℃を下回ると意識を失う。重度の低体温症では、心拍が減り、呼吸は1分間に1~2回になり、肌は白くなり、瞳孔は開いたままになり、ほとんど仮死状態になる。27℃を下回ると不整脈や心室細動を引き起こしやすくなり、20℃を下回ると心停止する。一方で、低体温症の仮死状態により、例えば水中で長時間呼吸できなかったような場合でも、蘇生できることが多々ある。中枢温度が3.7℃から完全に回復した例もある。
 水は空気の25倍速く体の熱を奪うので、同じ温度の場合、水中の方が生存できる時間ははるかに短い。水温が15℃でも裸なら2~3時間で低体温症になり、5℃では30分もたず、0℃では15分もたず30~90分で死亡する。ただし、皮下脂肪を蓄え、服を重ね着したりウェットスーツを着るなどして断熱効果を持たせ、無駄な運動をしなければ生存期間は伸びる。また、冷たい水は、不整脈を引き起こしたり、呼吸亢進を引き起こしてテタニー(緊張性筋痙攣)を促し、アイスダイビングによって健康な若者が数分間で死亡した例が多くある。
 体内に蓄積されていた炭水化物が使い果たされると糖が消費されるが、この状態でアルコールを摂取すると、アルコールの分解にグルコース(ブドウ糖)が使用されるため、低血糖を促進して血管が収縮せずに血液が循環することになり、中枢温度が急激に下がる。気温20℃でも、80分間で体温が33℃まで下がった例がある。
3.1.3.5 宇宙
 装備なしで宇宙空間に飛び出せば、肺の空気はすべて噴き出る。血液や体液に溶けていたガスが気化し、細胞がバラバラになる。また、血管の中は気泡だらけになり、脳に酸素が運ばれなくなる。体内の器官に含まれていたガスの膨張により、消化管や鼓膜が破裂する。体が凍り付く。それらが一瞬のうちに起こり、15秒と経たずに意識を失うことになる。ソユーズ11号の事故では、気圧調整バルブが開いて空気が流出し、クルー全員が窒息死した。
 ロケットが打ち上げられる際、静止状態から軌道速度まで一気に加速し、プラスの重力加速度を受ける。重力加速度が大きければ、血液は足元に移動し、心臓が十分な血液を送り出せなくなるため、脳に血液が運ばれずに意識を失うことになる。横隔膜も下方に引っ張られ、息が吐きにくくなる。重力加速度の単位である1Gは、地表での引力に相当する。2Gで体が重くなり、顔の肉がたるんで、座っている場合はなかなか立ち上がれない。3Gで立っていることができず、視界の両端から色彩が失われ始める。4.5Gで視界が失われる。8Gで腕や顔を上げることができなくなる。12Gを超えると大抵の人は意識を失い、痙攣する場合もある。25G以上は背骨を損傷するリスクが高いため、戦闘機の緊急脱出シートの上限とされている。
 無重力状態では、体液が全身に移動し、顔のむくみ、眼球が飛び出るような感覚、鼻づまり、ふくらはぎの縮小などが起きる。また、脊椎の軟骨が圧迫されなくなることで、背が伸びる。ただし、長期間の滞在は骨や筋肉を脆くする。赤血球は10%近く減少する。咳の水滴が落下せず空中を漂うため、感染症が蔓延しやすくなる。
 長期間の放射線の照射はDNAを損傷させてガンのリスクを高くするが、太陽フレアが引き起こした強烈な太陽嵐を浴びれば、細胞が破壊され、中枢神経系が損傷すれば数日で白血球が減少する。場合によっては、重度の放射線病により数時間で死亡する。