5 殺人と法律

5.2 精神鑑定

 精神鑑定は、精神障害に関する専門知識と経験がない法律家に代わり、精神科医の鑑定人が対象の鑑定を行うことであり、法律判断を助ける。有名な刑事責任能力鑑定の他に、医療観察法鑑定(犯罪者に医療を受けさせる必要があるか、入院の必要があるか)、刑事訴訟能力鑑定(訴訟行為に耐えうる能力が失われ、公判手続きを停止するべき状態か)、少年事件の精神鑑定(家庭裁判所の審議で用いる精神鑑定を外部に依頼するケース)、刑事事件における被害者の精神鑑定(犯罪事件に巻き込まれた被害者を対象とし、訴訟に用いる「被害による精神的影響の評価」や「被害時の精神状態の評価」を鑑定)などがある。

5.2.1 刑事責任能力の鑑定手順

 刑法上の犯罪とは、「ある人が行った行為が法律に規定された犯罪行為の型に該当し、その行為が法の保護しようとする生活利益を害するものであり、その行為について行為者を非難しうる場合」とされ、違法性を認識・判断し、自己の行為を制御する能力が一般人と比較して著しく低い(責任能力がない)場合には、行為者に対して刑罰を科すことができないとされる。刑法では、責任無能力者=心神喪失者=「精神の障害により事物の理非善悪を弁識する能力や弁識に従って行動する能力がない状態」と定義され、刑罰を受けない。限定責任能力者=心神耗弱者=「精神の障害がこのような能力を欠如する程度には達しないが、著しく減退した状態」と定義され、刑が必ず軽減される。ここで言う精神の障害とは、医学的・生物学的・心理学的に決まらず、最終的には裁判所が判断するものである。
5.2.1.1 精神鑑定の手順

 刑事責任能力を判断するための精神鑑定は、下記のような場合に依頼されることが多い。

  1. 逮捕時の言動や態度から精神状態の悪さが示唆される場合
  2. 対象者が述べる動機が了解不能もしくは了解しがたい場合
  3. 対象者が選んだ手段が目的達成のために合理的ではない場合
  4. 対象者の犯行中の行動が合理的ではない場合

 依頼を受けた後、次の流れで実施される。実施期間は、簡易鑑定であれば半日~1日、本鑑定であれば2~3ヵ月かかる。

  1. 資料を精読する
  2.  警察官と検察官によって作成された取調べの調書や、弁護人から提出された資料にすべて目を通す。近年は録音・録画されていることも多い。調書は捜査担当者によって理路整然とした文章に修正されているので、評価の対象にすべきではない。
  3. 本人への面接を行う
  4.  精神鑑定の中核をなす作業。鑑定人が面接をしやすいように、鑑定対象を近場に移送することもある。誘導や暗示を与える言動は避けるのが望ましく、話題だけコントロールして鑑定対象に自由に語ってもらう姿勢を取る。「それは~ということですね?」と語り手の先回りをして意図を汲む行為は控えるべきとされる。教科書的なパターンが見つかったからといってクローズドクエスチョンを投げかけたり、質問を終えることは望ましくない。したがって、追加の説明を求める言葉が多用されることになる。1回2時間程度の面接を10回以上行う。鑑定中は他の接見が禁止されることが多く、顔を合わせるのは鑑定人と弁護人だけ(登録すれば鑑定助手も)ということになる。
  5. 家族への面接を行う
  6.  事件当時に鑑定対象がどのような状態であったかを裏付ける証拠にするなど、診断の補助として実施する。遠方の場合は電話による聴取などで代用されることもある。簡易鑑定の場合は実施しない。
  7. 心理検査を行う
  8.  知能検査(WAIS-Ⅲ成人知能検査、WISC-Ⅳ知能検査)、質問紙法による性格検査(ミネソタ多面人格目録、YG<矢田部-ギルフォード>性格検査)、投影法による性格検査(ロールシャッハテスト、P-Fスタディ、SCT文章完成法、HTP検査、バウムテスト、風景構成法、人物画テスト)、各精神障害の重症度の判定(BDI-Ⅱ、CDR、PARS-TR)などが用いられる。法律家に見極めることはできないが、それでも信頼性や妥当性を検証していない検査は望ましくない。簡易鑑定の場合は実施しない。
  9. 医学的検査を行う
  10.  通常は神経学的所見、血液検査、尿検査、脳波、頭部MRIなどの検査を行う。病院に鑑定対象の身柄を移送する必要がある。簡易鑑定の場合は実施しない。
  11. 収集した情報をまとめる
  12.  情報整理に努めるとともに、証言者によって証言が食い違っている場合や、同一人物の証言が時間経過によって食い違っている場合があるので、齟齬の原因を検証する。特に、取調べと鑑定人の前での供述が食い違う場合は注意すべきとされる。
  13. 精神医学的診断をする
  14.  操作的診断基準に従って臨床と同様に診断を下す。臨床と異なり、「覚えていない」「分からない」は多く聞かれ、本能的に語りたくないケースや、虚偽の訴えである場合が多いので、記憶障害や健忘と判断しない。
  15. 事件を説明する
  16.  診断名を確定することは最終目的ではなく、精神障害がどのように事件に影響したのかという機序の説明が求められる。具体的には、症状、病理、病態、正常心理や現実的な葛藤状況などが、事件前後の経緯、動機、契機、犯行の態様などにどのような形で関係したのかを書き出す。
  17. 鑑定書を作成する
  18.  鑑定対象の情報(生活歴、病歴、家族歴)、事件の概要、医学的検査所見、心理所見、犯行前後の精神状態、考察とまとめ、鑑定目的に対する結論などをまとめて、鑑定書を作成する。答えが出ないという鑑定結果もあり得る。
  19. 出廷する
  20.  提出した鑑定書に関する質疑がある場合や、直接話を聞きたい場合に、出廷を求められることがある。近年は、鑑定書の趣旨を明確に理解させるために、尋問に先立って鑑定人がプレゼンテーションを行うことも多い。簡易鑑定については原則として出廷はない。

 島田事件の精神鑑定(被疑者がアリバイを訴えた際に、精神薄弱の鑑定結果が用いられ信憑性がないとされた。後に冤罪事件と判明)、弘前事件における丸井鑑定(15分間のみの面接で、神経衰弱症およびサディズムと鑑定し、「心理学的に見て真犯人だと確信した」と述べたが、後に冤罪事件と判明)は、冤罪に加担したとされ精神鑑定の黒歴史として扱われている。
5.2.1.2 刑事責任能力の判断手順

 精神鑑定結果をもとに法律家は刑事責任能力を判断するが、具体的には8つのステップで最終的な法的判断を導き出す。

  1. 精神の機能、症状、病態、病理(健常部分を含む)に関する情報の収集
  2.  精神状態や病理の理解に必要な鑑定対象の情報を収集、整理する。
  3. 精神の機能、症状、病態、病理(健常部分を含む)の認定
  4.  1のステップで収集した情報を精神医学的に評価して、精神の機能、症状、病態、病理の特徴を特定する。「電磁波をかけられ集団ストーカーにあっているという被害妄想」といったように、精神症状学の当てはめが行われる。
  5. 疾病診断
  6.  2のステップの情報に、操作的診断の診断基準や従来診断の疾病概念を当てはめて、診断名をつける。鑑定対象が精神障害を偽っている場合は、訴える症状、現れ方、変化の様子などを疾病概念に照らし合わせても合理的な説明がつかなくなる。
  7. 精神の機能、症状、病態、病理(健常部分を含む)と事件の関連性
  8.  別途、事件の犯罪学的特徴を特定しておき、2のステップで特定した精神医学的特徴が犯罪学的特徴にどのように影響したかを調べる。病的な特徴で説明しきれない場合、健常な特徴で説明できるかも検討する。例えば、病的な特徴をもとに「被害妄想が犯行動機そのもの」としたり、健常な特徴をもとに「直前の被害者との口論による怒りも犯行動機になっている」とする。
     この段階まで調査が進んでいれば、法的に分析する上で有用な、7つの着眼点「動機は自己の制御下によるものか」「犯行の計画性、突発性、偶発性、衝動性」「行為の意味や性質、反道徳性、違法性の認識」「精神障害による免責可能性の認識」「平素の人格に対する犯行の異質性」「犯行の一貫性」「犯行後の自己防衛、危険回避行動」を用いることができる。
  9. 善悪の判断や行動の制御への焦点化
  10.  4のステップでみた影響のうち、善悪の判断や行動制御に関わる部分を抽出する。
     心神喪失・心神耗弱に関する刑法39条の解釈に踏み込むことになるので、本ステップ以降は精神科医が主体的に行うべきではないとされるが、実際のところはステップ7まで精神科医が行い、法律家はそれを引き継いでステップ8からの作業をしているという指摘もある。
  11. 法的な弁識/制御能力としての特定
  12.  「精神障害が事件に与えた影響」の中で、弁識の能力と行動制御の能力として見るべきものは何かを特定する。例えば、「被害妄想が犯行動機そのもの」のケースでは、「その攻撃行動は自身の命を守るための正当な反撃だと、被害妄想によって確信している」と判断されれば弁識能力に繋がる。
  13. 弁識/制御能力の程度の評価
  14.  6のステップで特定した能力が、どの程度の障害を受けているかを、主観と相場観で評価する。
  15. 法的な結論(刑事責任能力)
  16.  これまでの結果をもとに、弁識能力もしくは制御能力のいずれかでも、失われていれば心神喪失、著しく障害されていれば心神耗弱と判断される。

5.2.2 精神障害との関連

 心神喪失者を罰しないという原則は、心神喪失者が了解不能(自身の物事のとらえ方を捨て、相手に感情移入することができない)や意味連続性の切断(その人本来の人格が抜け落ちてしまうような異常)によって本来の精神生活に深刻な変化をきたして犯罪を起こすことが前提になっている。統合失調症により生じる、対話性幻聴、思考伝播、考想化声、させられ体験、妄想知覚といった体験の異常や、深刻な躁うつ病による物事のとらえ方の変化などである。したがって、例えば盗難癖(クレプトマニア)や放火癖(パイロマニア)などの衝動制御障害は、真正精神病ではなく犯罪行為を特徴として定義しているだけであるように、適応障害などのストレス関連障害、反社会性パーソナリティ障害などのパーソナリティ障害、生来の軽度から中程度の知的障害、発達障害、摂食障害、性障害などは責任能力があるとみなされ、単体で心神喪失ないし心神耗弱が認定されることは稀である。

5.2.3 詐病の証明

 詐病とは、刑免状などを目的とし、病気の症状を意図的に偽装・模倣することである。過去にかかっていた病気が残っているように振る舞う場合もある。逆に、健康を偽装することを匿病という。下記の要素が確認できる場合に詐病と判断される。すべての要素が揃わなければ、「詐病である」という断定は難しく、「可能性が高い」「可能性を払しょくできない」という結論を下す可能性が高い。

  1. 精神障害であるかのような陳述あるいは外観があるが、その一部ないし全体が本当ではない
  2.  幻覚、妄想、解離、別人格などの自己申告や演出、重度認知症のような応答が、精神障害があるという強い印象を与えるが、余分な症状があったり、必要不可欠な症状が欠けているなど、臨床上経験する病像と矛盾する所見が少なくない。ただし、過去にかかっていた精神病が残っているように振る舞う者は真偽の判別が困難である。病的体験に支配されていると訴えている時期に、一方で合理的な行動をとっていた事実がある。
  3. 偽装・模倣に向けられた意思が働いている
  4.  精神病であることの自己申告や誘導、不利益事実を語らない構え、事実でない陳述、異常性を強調する誇張表現、常軌を逸したと印象づける演出、詐病を演じていない瞬間との不自然な整合性などが、わざとらしさを印象づける。鑑定人の目前など特定の状況でしか症状が発生しない。
  5. 病気とみなされることで実質的な利益があることが明確
  6.  起訴回避や刑罰回避といった詐病の強い動機がある。逮捕直後には無かった精神病症状が拘留下から始まる。自主的に「病気だからといって罪罰から逃れようとしているわけではない」と申告することが多い。

 また、詐病を始めた時点から、供述の仕方や内容が変化する特徴を持つため、逮捕直後、起訴前の聴取、公判での証言を比較することで、次のような詐病者に典型的な供述変遷が見つかる。

  • 逮捕直後には犯行を認めるが、やがて健忘を訴え、さらに病的体験支配へ遷移。
  • 「後から思い出した」という形で精神病体験を語る。
  • これから話すことが事実だと強調する。
  • 犯行の準備状態・契機・実行状況が、他者からして納得いく経緯のものも、すべて精神病の体験に置換されている。
  • 他者からして納得いく経過の動機や態様を積極的に否定する。
  • 犯行に影響を与えたと申し立てられている精神病体験だけが時間経過につれて鮮明になる。
  • 自分の語る物語に都合の良い情報だけを選択。
  • 本人が不利益と感じる事実を語ろうとせず、否認したり言い繕う。
 ここで、妄想の定義は、①病的に作られた誤った思考内容や判断、②根拠が薄弱なのに強く確信される、③論理的に説得しても訂正不能、なものであり、患者の異常体験や感情変調、人格特徴、状況などから起こり得るものを言う。
 以上から、裏を返せば、精神病を深く理解し陳述に一貫性を持たせること(過去にかかっていた精神病なら最適)や、積極的になりすぎない自然なアピールを記録前から始めることが詐病を成功させるうえで効果がある。また、鑑定人は人間であるため、誠実な態度をとり良い印象を与えられれば、小さな違和感を隠す効果があると考えられる。

5.2.4 鑑定例

 刑事責任能力の鑑定例を、症例に要点を絞って紹介する。
5.2.4.1 統合失調症
 統合失調症は精神医学の中で中核的な疾患であり、精神鑑定においても基礎を学ぶ上で重要である。統合失調症は妄想や幻覚・幻聴が特徴的だが、妄想は、境界が不明瞭なものの2種類に分類でき、現実に起こり得ないような荒唐無稽な「奇異な妄想」は統合失調症と親和性が高く、現実に絶対ないとは言えないような内容の「奇異ではない妄想」は妄想性障害と親和性が高い。また、「やれ」という命令性の幻聴があっても、それだけでやりたくないことをするほど人は単純ではないので、妄想などが命令の受け止め方に影響を与えているかが重要である。犯行時に、精神運動統制が混乱することにより、精神運動抑制(動作や会話が遅くなる、しぐさや自発性が減る)や、精神運動興奮(内的緊張が高まり、足で床を叩いたり、手を揉んだり、不穏になったり、落ち着きがなくなる)を引き起こすことがある。

 以下は、症状として幻覚や幻聴、妄想が前景に立つ事例である。

事件概要 被害者の集合住宅に玄関ドアから侵入し、リュックサック等時価5万円相当を窃盗した
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)統合失調症に罹患し、妄想や幻想が存在。
(犯行に及ぼした影響)統合失調症の症状によって説明できる。現実的な動機はほとんど認められない。
(善悪の判断能力と行動能力)どちらも失った状態にあった。
(入院等の必要性)現在も罹患しており、他害の恐れがあるので治療が必要。病識を欠くため、釈放される場合は精神保健福祉法24条通報が必要。
診断

統合失調症(コード:295.90 診断基準:DSM-5)(犯行時、現在)

 対人関係の持ち方の偏り、生活習慣上の偏り、思考上の偏りは小学校高学年から見られたが、自他が異常に気付いたのは2年前から。被疑者によると精神症状は、テレビをつけていなくても「ちょっとしたチューニング」をすると音声が聞こえる(幻聴)、自宅前の電線の電磁波を通じて耳鳴り、頭痛などを受ける(被影響体験)、県外で見た電柱の広告で「自宅の昔の電話番号が、別の件で使われていること」に気づいた(妄想知覚)、被疑者を追跡して観察している人達がいる(追跡妄想)、行く先々で昔の同級生がいる(人物誤認)など。特にここ数週間でより強いものとなり、生活全体に影響を及ぼしている。「自殺願望」のために1度心療内科に行ったが治療は受けておらず、他に精神医学的な既往、器質性の問題、アルコールや薬物などの使用の問題はない。以上の症状と経過から、比較的最近に発症した統合失調症の急性期にあると診断される。
 なお、被害者は小学校5年生からなんとなく不登校になり、人混みに出ること、時間を決められること、生のものを食べることなどは無理といい、偏りが認められるが、記録や面接時の応答において発達障害を疑わせる経歴や所見(視線を合わせない、相手の発言の意図を読み間違えるなどのコミュニケーションの障害)は認められず、発達障害の診断は下さない。
詳細
 事件1週間前から、不自然に見える路上のゴミなど、次に行くべき場所やすべき行動を指示する「ヒント」が身の回りに現れた。追跡者が観察していることや、「ヒント」を辿っていくと昔の同級生がいることから、「脱出ゲームのようなもの」が行われていると認識した。
 犯行当時、「脱出ゲームのようなもの」の一環で、公園で拾ったドアノブを「ヒント」にして集合住宅のドアを1つ1つ確認していき、空いていた部屋に侵入した。「ヒント」を確保するため、ノート、単行本、置物などをリュックサックに詰め、「ヒーローに似合うから」という理由で柔道着を身に付け、結果的に窃盗を行った。「窃盗」の現実的な動機は認められず、「侵入」も「寝泊まりする場所を探していた」と述べているものの、「ヒント」に従い部屋を選択したのであり現実的な動機として重視するのは適切ではない。
 帰宅した家主の通報により現行犯逮捕され、留置中は、急に「あぁー」と声を上げたり、独り言を言いながら部屋をぐるぐると歩き回る様子が確認された。精神運動興奮状態や錯乱が顕著に現れている。
 鑑定時に被疑者は「突然やってきた警察に捕まって、連れていかれた」と述べ、それ以上の詳しい説明が得られなかった。

 以下は、症状として解体症状(まとまりのない発語、精神運動興奮性の行動)が前景に立つ事例である。犯行当時に統合失調症に罹患し症状があり、事物の理非善悪の弁識能力や行動能力が著しく減退していることから心神喪失を示唆する内容で鑑定が行われ、裁判員裁判でも心神喪失が認められ無罪判決が出ている。

事件概要 自宅において母を刃物等で多数回突き出し、出血性ショックを引き起こして殺害した
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)統合失調症に罹患し、怠薬による悪化により急性増悪期にあった。物事を被害的・妄想的に解釈する幻覚妄想状態にあり、一定の意思に基づいて一貫した行動を取ることが難しい状態にあった。亜昏迷状態にある一方で、被刺激性が亢進しており、衝動制御が困難な状態だった。
(犯行に及ぼした影響)統合失調症の急性増悪期にあり、影響は甚大。些細なトラブルがきっかけとなり、自身の行動を制御できなくなり犯行に及んだと考えられる。
診断

鑑別不能型統合失調症(コード:F20.3 診断基準:ICD-10)(犯行時、現在)

 精神症状は、思考・社会関係・行動に影響する妄想と幻聴、連合弛緩(話のテーマがまとまらなくなる)を主とした概念の統合障害、拒絶・易怒性・攻撃性・被刺激性、周囲に対する反応性の低下・活動の減退を伴う亜昏迷、判断力と病識の欠如、対人交流を極めて限定的にしている無為・自閉傾向、常同的な思考(考えが動かず、同じ話や行動を繰り返す)、注意の障害。破瓜型統合失調症の要素が多いが、一方で継続的に固定化した妄想、複数回にわたる亜昏迷症状があるため鑑別不能型統合失調症と診断される。
 逮捕後に抗精神病薬の投与が再開されたが、診断時に血統妄想(自身はフランス人であり、親は本当の親ではないと認識)や思考障害(面接の後半になるにつれ「はい?」と聞き返すことが増え、注意の持続が困難である様子を見せる)は持続していた。病識に欠け、自身が精神科の病気であることや、精神科病院への過去入院を否定した。
詳細
 高校の途中から不登校となり、引きこもりの後、大量服薬により自殺を図った。精神科を受診したが、心因反応(身近な人の不幸や災害により一時的に心理的なダメージを受けた状態)と診断され1回の受診で終わった。その後、血統妄想や奇行により入退院を繰り返した。
 事件当時、怠薬により精神症状は悪化しており、コンビニの店内を1時間徘徊したり、駅改札前に直立不動でたたずんだり、ラーメンを2時間かけて食べたり、一点を見つめ身動きをせず立ち尽くすことが数分間あったり、亜昏迷状態が観察されている。事件の認識はなく、亜昏迷状態により健忘が生じていたことが明らか。また、レジの打ち直しを要求して、前後で同額であることに疑問を持つ、5832円の物品を購入するのに6653円を支払う、Suicaで改札を通過できず切符を購入するなど、普段支障なくできていた行動が困難になっており、思考障害が著しく、亜昏迷状態により判断能力を欠いていた。
 供述においては、繰り返し質問を受けた自己防衛である旨の回答はスムーズだが、詳細や感情は「分かりません」や「覚えていません」という返答に留まり、面倒に感じたり諦めから即答する場合と、視線を合わせて真摯に返答しようとした上で返答する場合があり、犯行前後の記憶が断片的であることを示唆する。

 以下は、精神鑑定を実施した鑑定医によって、被告人の訴えが詐病であると証言された例である。裁判所もこの結論を支持し、無期懲役の判決が下されている。

事件概要
 通行人から金品を強奪しようと考え、路上において被害者Aにシースナイフの刃先を向けて強迫したが、被害者Aがシースナイフの刃をつかんで押しのけて逃げたため、目的を遂げなかった。この際、被害者Aは母指切創の障害を負った。
 2分後、通行人から金品を強奪しようと考え、路上において殺意を持ってシースナイフで被害者Bの頸部および背部を数回突き刺し、現金が入っていた手提げバッグを強取した。この際、被害者Bは刺切創による失血により死亡した。
 13分後、路上において停車した普通自動車に乗っていた被害者Cにシースナイフの刃先を向け、「今、人を一人殺してきた。」「降りろ。」「金払え。」などと語気強く言って強迫し、現金が入っていた財布を強取した。
 1分後、被害者Bを救助するため停車していた被害者Dの普通自動車を窃盗しようとして、運転席に乗り込み発進しようとしたが、被害者Dが駆け寄り降車を求めたことから、「うぉー」と怒号しながらシースナイフの刃先を向けて強迫し、普通自動車を強取した。
 2日後、被告宅で大麻を所持していたのを見つかっている。
 公判段階において、被告人は「ハイジャックを、今やるしかない。」等の幻聴を聞いたと訴えた。
診断
 反社会性パーソナリティ障害、自閉スペクトラム症であると認められるが、犯行前もインターネット上の人付き合いはあり、実際に会うなど対人交流が保たれており、鑑定の面接においても会話は理路整然とし、思考はまとまっていることなどから、統合失調症とは認められない。幻聴の訴えは詐病と判断される。

 以下は、被告人が幻覚と健忘を訴えたが詐病と判断された例である。裁判所も鑑定人の判断を支持した。

事件概要
 乗車タクシー内において運転手を背後から襲い、顔面等を刃物で切り裂いて殺害し、現金を奪い取った。他に、7件の強盗殺人・強盗殺人未遂について争われていた。
診断
被告人は弁護人に書いた手紙で心神耗弱などによって執行猶予が付くかに関心を持っている。また、面接の間を通して、礼節が保たれ、意識も清明であり、拘置所からの報告でも言動に奇異な点はなかった。精神鑑定の際に1時間ほどの面接を13回実施したが、6回目の面接の際に、これまで所見がなかったにもかかわらず5回目の面接の内容が全く思い出せない旨を述べるとともに、「人から見れば変わったことしてるかもしれませんね」と述べて自らの行動の異常性を示唆したり、「普通じゃない盗り方してるんですね。そういうのも薬の影響と考えたら」と述べて自らの行動について価値判断をする訴えをしたり、「錯覚みたいなんが見えたりする」と述べ、自己防衛という目的意志が存在していると判断できる。さらに、解離性健忘によって期間内の出来事全般について覚えていないと供述しているにもかかわらず、その間に発生した強盗殺人2件について犯行をしていない記憶があると供述しており、また一部の犯行を思い出すことができることから多重人格障害でもなく、健忘では説明できない内容であるため、これらからも自己防衛という目的意志が存在していると判断できる。また、11回目の面接で一部の窃盗の犯人が自分ではないと訴えたが、14回目の面接でウソだと認めており、ウソをつく傾向がある。これらから健忘は捏造であり、詐病だと判断できる。また、8回目の面接の際に、これまで訴えていなかった「完璧に塗装したような銀色、シルバーの虫が見えた」と訴えたが、後に幻覚に対して「本物じゃないですね。幻覚だと思いますね。」と述べ幻覚を本物だと信じるような真性幻覚の症状は存在しておらず、これらから幻覚は捏造であり、詐病だと判断できる。

 以下は、被告人が複数の病院で統合失調症と診断されていたことに対して、詐病の疑いがあると判断された例である。裁判所も鑑定人の判断を支持した。

事件概要
 スーパーマーケット店内において、買い物中の被害者に対して、死亡するかもしれないことを認識しながら、右腹部を洋包丁で1回突き刺し、全治30日を要する腹部刺創、外傷性十二指腸損傷及び外傷性腎損傷の障害を負わせた。
診断
被告人は断続的に複数の精神病院へ入退院を繰り返し、ほとんどの病院で統合失調症と診断されていた。しかし、鑑定人の面接時に被告人が「過去にも幻聴等はなかった」と述べたほか、精神科の診療録等によれば被告人が訴えていた幻聴等は数日で軽快していたといい、統合失調症であれば数週間から数ヵ月を要していたはずなので不自然である。また、長期間統合失調症に罹患していると人格の変化が認められるはずだが、統合失調特有の人格の変化が認められない。さらに当時は隔離収容主義の下、患者を入院させるために「精神分裂症」という診断名が容易に用いられていたことから、社会生活のストレスからの病院への詐病による逃げ込みであったと判断した。

 以下は、被告人の訴える幻聴が詐病と判断された例である。裁判所も鑑定人の判断を支持し、完全責任能力を認めている。

事件概要
 殺人事件。被告人は捜査段階から公判まで、以前から神霊の声が聞こえる幻聴があって、神経を虐待され続けてきたが、犯行の直前にも神霊が「(被害者)の生命を預かっている。殺してもいい。」とか「(被害者)を殺してしまえ。」などと命じたので、これに抗いきれずに殺害した弁明を繰り返していた。
診断
神霊の最初の発現時期について一貫しない供述をしており、幻聴の内容についても「神霊」や「潔い精神病質」のような用語をしきりに強調するだけで、具体的な質問に対しては答えをはぐらかしたり、その実態を問われると、場当たり的で一貫しない漠然な説明に終始していた。また、高血圧症等の診察治療を続けていた主治医によれば、被告人は耳鳴りの症状を訴えたことがあるが幻聴については明確に否定していたという。近隣住民も被告人が幻聴に悩まされていたことを窺うことはできなかった。また、被告人が幻聴を訴え始めたのは、犯行後約2か月後であり、統合失調症患者特有の表情や態度が全く見られない。以上から、被告人の実母が幻聴を伴った軽度の統合失調症に罹患した病歴を有することを考慮しても、被告人が犯行の罪責を免れるために幻聴に操られた精神障害者を装っていると考えられる。
5.2.4.2 気分障害

 心神喪失・心神耗弱と判断された事例によると、気分障害者のうち殺人は21~37%、統合失調症者のうち殺人は12~20%であり、気分障害の比率が高い。この気分障害には双極性障害=躁うつ病と単極性障害=うつ病があるが、精神鑑定においてはうつ病が重要である。うつ病者の殺人の被害者は家族が多く、特に無理心中による子殺しが多い。統合失調症に比べて病相期が短い特徴がある。

事件概要 身体的な介護が必要な実母の頸部を梱包用のヒモで絞め、窒息的作用による低酸素脳症を引き起こして殺害した
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)重症うつ病エピソードに罹患しており、抑うつ気分、意欲低下、罪業妄想、貧困妄想、不眠などの精神症状があった。
(犯行に及ぼした影響)うつ病の抑うつ気分、罪業妄想等の影響を極めて強く受けた結果、認知症で絶望的な状態にある実母との無理心中を決意した。
(善悪の判断能力と行動能力)被害者の苦しむ姿を見たことで、行動の反道徳性を認識し犯行を中止したことから、善悪の判断能力と行動能力は著しく障害されていたものの失われてはいなかった。
診断
精神病症状を伴う重症うつ病エピソード(コード:F32.3 診断基準:ICD-10)(犯行時)

軽症うつ病エピソード(コード:F32.0 診断基準:ICD-10)(現在)

 元来、被疑者は内向的でまじめな性格だった。母親が認知症に罹患し問題行動が著しくなり、介護に専念するため退職してから、抑うつ気分、意欲低下、不眠などの症状を自覚した。母親を精神科病院に医療保護入院させたが精神症状は改善せず、「母親を見捨てて入院させた」と自責的に考えるようになった。退院した母親は体が弱っており、「母親を惨めな姿にして人生の希望を奪ってしまった」という罪業妄想と「介護に必要な金がない」という貧困妄想が現れ抑うつ状態は悪化した。以上から、罪業妄想および貧困妄想などの精神病症状を伴う重症うつ病エピソードと診断される。
詳細
 被疑者は、デイサービスなどの社会資源の利用を拒否しており、また精神科病院に対する偏見を持っていた。認知症である母親の問題行動を受け、被疑者は抑うつ気分、意欲低下、不眠、思考制止などの抑うつ症状を自覚していた。見かねた妹の説得により、母親を精神科病院に医療保護入院させたが、毎日面会に行き、身体拘束下で胃管チューブを挿入された状態を見たことや、退院後に自力で立ち上がる困難になった身体状態から、後悔の念と罪悪感にさいなまれる。その後に導入した慣れないデイサービスの利用や使いこなせない喀痰の吸引器にも困惑した。
 犯行当日の朝、数百万の残高がある貯金通帳を見ながら妹に対して「お金がない」と述べた(妹の証言であり、本人は詳述できなかった)。この際、前日の夜から介護の不安と金がないという妄想から、自分にも母親にも将来がないと考えるようになり、母親を殺して自殺することを決意していた。直後、妹のいない隙に母親の首を絞めたが、凶器のヒモは気づいたら握っていたと言い、意識野が狭窄した状態にあったことが示唆される。苦しむ姿を見て止める(後に母親は病院で死亡)。自分だけ死ぬことを考え直し、自室で包丁を使い首と胸を刺し意識を失うが、緊急手術により一命を取りとめる。
5.2.4.3 アルコール関連障害

 心神喪失・心神耗弱と認められた者の約3~7%はアルコール中毒であり、精神作用物質による精神障害としては最も多い。酩酊状態における精神状態の評価として、下表のようなBinderの酩酊基準が用いられることが多い。また病的酩酊においては、もうろう型の意識障害では自身の置かれた状況を把握できない傾向が強く、行動は無目的に見えるが本人の内面を反映している。せん妄型の意識障害では内面を反映していない多彩な幻覚が引き起こされており、強い運動性緊張が存在する。一般に単純酩酊は責任能力があり、複雑酩酊は著しく判断能力が障害され、病的酩酊では判断能力は失われているとされる。

単純酩酊 複雑酩酊 病的酩酊
意識 意識の混濁 意識の混濁 意識の変容
行為面
抑制の低下
行為は他者からして納得いくもの
抑制の欠如、粗悪な行為
行為の動機には目的があり、他者からして納得いくもの
本能的衝動行為
自発的行為
行為の動機や目的の喪失
気分
気分の高揚
易刺激的
不機嫌
情動的興奮
不機嫌
本能的な精神運動興奮
人格面
性格の先鋭化
人格相応
人格統合の保持
人格疎遠 人格解体
自身の置かれた状況の認識 ほぼ保たれる
低下
周囲認知機能は残存
消失
記憶面 時に健忘を生じる 比較的著しい健忘 著しい健忘
 アルコールの代謝能力や酩酊状態での言動を確認するため、飲酒試験が行われることがある。規定飲酒試験は、30分間で日本酒3合を摂取させ、血中のアルコール濃度を測定する。自由飲酒試験は、犯行時と同じ種類や量や時間で飲用する。被疑者が収監されたことによってアルコール代謝が改善していたり、複雑酩酊での情動反応を引き起こす心理的な刺激が無いなど、必ず再現できるものでもない。
 元来の人格傾向や時間経過により意識水準の変動があるので、酩酊状態の判断は鑑定によって分かれる余地がある。

 以下の事例は、懲役1年、執行猶予2年の判決になったものである。

事件概要 飲酒下で自家用車を走行させ、3台の車に接触し、その中の1台に乗車していた男性に障害を負わせた
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)犯行当時、「アルコール依存症候群、物質使用中のもの、及びアルコールによる強い酩酊状態」にあった。
(犯行に及ぼした影響)アルコール依存症候群により日常的に飲酒していたが、その日は前日の酩酊状態からさらに飲酒し、悪化した状態で運転をした。単純酩酊であるため、事故を故意に行ったとは考えにくい。強い酩酊状態により意識状態が低下し、車を安全に操作できなくなり事故を起こした。
診断
アルコール依存症候群、物質使用中のもの、及びアルコールによる強い酩酊状態(コード:F10.24 診断基準:ICD-10)(犯行時)

アルコール依存症候群、物質使用中のもの(コード:F10.24 診断基準:ICD-10)(現在)

 犯行時は「アルコールを引用したいという強い欲望」「出勤途中であるにもかかわらずやめられない」「離脱症状が生じて入院した」「肝機能障害が指摘されてもやめられない」「毎日飲酒を続けており、酒量が増えていた」であり、ICD-10の診断基準を5つ満たしており、アルコール依存症候群、物質使用中のものと診断される。さらに、推定されるアルコール血中濃度は370mg/dLと高濃度であり、アルコールによる強い酩酊状態であるといえる。
詳細
 被疑者は18歳で就職してからアルコールの摂取が始まり、飲酒量と頻度は徐々に増えていった。多めに飲むと翌朝音が耳障りになるようになり、飲酒すると音が楽になるので、通勤途中でも飲酒するようになった。犯行3ヵ月前、アルコールを摂取しなかったところ全身性の痙攣と視覚変容を伴う離脱症状を生じ入院した。しかし退院後、飲酒を再開する。その1ヵ月に、めまいのため救急車で搬送され肝機能障害を指摘されたが、またも飲酒量を増やして飲酒を再開する。
 犯行前日の夜に飲酒し、翌朝ぼうっと酔った状態で出社する。運転行為は緊張を強いるものであるため、酩酊下にあっても意識水準の低下は比較的生じにくいとされる。通勤途中にコンビニでワインを購入するが、行動については部分的な健忘を生じていた。行動が緩慢のため早退したが、父親の食堂を手伝うため再度運転してワインを購入し、仕事終わりに飲酒する。健忘は次第にひどくなり、この時は「国道に出た」と「赤い看板」しか想起できない状態であった。職場の忘れ物に気づき再度出社する際に、反対側の車線にはみ出し事故を起こした。
 被疑者は酩酊状況においても平時の人格から逸脱しないと父親や同僚が証言しており、飲酒試験においても酩酊中の人格は穏やかで、意識の変容は無かった。よって犯行時は単純酩酊だったと考えられ、攻撃的な人格や病的体験により事故を生じたものではない。
5.2.4.4 薬物関連障害
 薬物関連障害の鑑定は、覚せい剤使用に関するものが多く、心神喪失・心神耗弱と認められた者の約1~4%は覚せい剤中毒でありアルコール中毒に次いで多い。善悪の判断能力と行動能力が障害されていると判断された場合でも、本人が覚せい剤を意図的に乱用したことが原因になっていることから「自招性」が問題になるケースがある。

 精神病症状のある被疑者に覚せい剤の使用歴や依存歴がある場合、覚せい剤により誘引された症状か、統合失調症などの内因性精神病なのか鑑別することになる。鑑別点は下表の通り。ただし、実際には鑑別は困難で、使用中止後も持続する慢性覚せい剤中毒と別の精神病の鑑別はできないとされる。(ただし病名によって責任能力は変わらない)

覚せい剤精神病 統合失調症
覚せい剤の乱用歴 あり なし
注射痕 多い なし
他の薬物依存 多い 少ない
反社会的生活 多い 少ない
病前性格 パーソナリティ障害 分裂気質(過敏と鈍感の両方の性質を持つ)
病像
 意識混濁
 幻視
 猜疑心
 妄想的意味付け
 妄想内容
 させられ体験
 自我意識の障害
 感情鈍麻
 他人との意思疎通
 対人反応
 機転

まれにあり
多い
著明
活発
状況反応的
させられ体験
一過性
なし
保持
あり
保持

なし
少ない
あり
あり
唐突
狭義のさせられ体験
持続性
あり
障害
不関性
障害
経過 多くは一過性 多くは持続性、進行性
予後 器質性人格変化(反社会的行動) 人格荒廃(社会から孤立)

 以下の事例は、検察官により心神耗弱と判断され不起訴処分となったものである。

事件概要 被害者宅において、持ってきた洋包丁で被害者の背中を斬りつけ全治不詳の障害を負わせた
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)犯行当時、「覚せい剤使用による精神病性障害」に罹患していた。
(犯行に及ぼした影響)犯行の動機の大部分と直接のきっかけは、覚せい剤中毒による被害妄想や幻聴といった病的体験だった。
(善悪の判断能力と行動能力)犯行は計画的かつ合理的に行われ、動機は侮辱を受けたという心理学的に納得いくもので、犯行に至る思考も元来の被疑者の攻撃的なパーソナリティ傾向が反映されているが、動機の大部分は被害妄想に基づき病的体験に強く影響を受けており、善悪の判断能力と行動能力は著しく障害されていた。
診断

覚せい剤使用による精神病性障害―妄想を伴うものー(コード:F15.5 診断基準:ICD-10)

被疑者は覚せい剤の使用頻度が増加した時期から、被害、追跡、注察妄想、嫉妬妄想、幻聴の症状が出た。症状は犯行時まで持続していたが、使用の中止後に向精神薬を内服していないが改善した。以上から、覚せい剤使用による精神病性障害と診断される。
詳細
 被疑者は15歳から覚せい剤を一時期使用し、30歳で再開した。犯行前、覚せい剤の使用頻度が増加した時期から、覚せい剤使用を責める被害者と不仲になり、不眠、飲酒量の増加とともに、「(被害者から)自宅が盗聴や盗撮されている」「携帯のGPSでどこにいるか分かっている」「皆殺しにされる」「拳銃で撃たれる」と話し、盗聴器を見つけようと自宅内を探すようになった(客観的にそのような事実はなかった)。また、「浮気している」「飲み物に薬を入れられた」と妄想を話し、被害者に暴力を振るい別れ話が出ていた。
 犯行前日、包丁を持参した被疑者は、被害者に盗聴器を仕掛けるのをやめてほしいと頼んだが、口論になり取り合ってもらえず、「ぶっ殺してやるからな」と脅される幻聴から殺害を決意した。翌早朝、被害者が寝入るまで待ち、うつぶせの背中を包丁で突き刺した。
 犯行後、被疑者は興奮した様子で電話口に「刺しちゃった」「私の頭を灰皿にした」「貧乏人と言った」などと伝えた。逮捕当初、「チッ、失敗した、何で死んでないの。死ねばいいのに」などと興奮することがあったが、10日ほどで徐々に落ち着いた。
5.2.4.5 解離性障害
 解離性障害の特徴は、意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動抑制、行動の統合における破綻や不連続である。これは主観的な意識や行動に失敗している状態であり、犯行時に長時間解離状態であったなら、責任能力判断にも影響を及ぼす可能性が高い。
 解離性障害の中でも、解離性健忘は最も多く見られる。質問の仕方を変えたり、別の日に同じ質問をすることによって、詐病と同じように、少しずつ供述が変遷することも起こり得る。外傷性脳損傷に伴う健忘の場合には、遂行機能や学習領域における困難、情報処理速度の低下や社会認知機能の障害などの症状がないか確認して、解離性健忘と区別することが行われる。
 解離性同一性障害(DID)は旧称を多重人格障害と呼び、一人の個人の中に複数の異なった人格が現れる症状を指す。行為の視点では主人格が主体だが、責任能力と故意という視点では主人格に焦点を当てる場合と、行為時に肉体を支配していた人格に焦点を当てる場合がある。

 以下の事例は、責任能力があると判断され、懲役2年6ヵ月の判決になったものである。

事件概要 現住居に放火しようと考え、ベッドの上に敷かれていたシーツにライターで点火して火を放ち、部屋の一部を焼損させた
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)犯行以前から現在に至るまで、境界性パーソナリティ障害に該当する特異な思考、感情、行動の特徴を持続的に有している。
(犯行に及ぼした影響)境界性パーソナリティ障害の一定の思考、感情、行動の特徴は、犯行に至る流れ、動機、犯行の態様、犯行後の様態に対して、不安定で高ぶった感情、興奮、衝動性の高さ、感情抑制の欠如、破壊的な行動化のしやすさとして色濃く表れている。評価に考慮する必要はないが、解離性健忘により事件を思い出すことができない。
診断
境界性パーソナリティ障害(コード:301.83 診断基準:DSM-Ⅳ-TR)

解離性健忘(コード:300.12 診断基準:診断基準:DSM-Ⅳ-TR)

 常に夫との関係に危機感を抱き、見捨てられることへの不安が非常に強いが、些細なことで感情を爆発させ、激しい喧嘩を繰り返している。自己像が確立しておらず、始めは相手を尊敬し理想化するが、自分の意にそぐわないと手のひらを返して相手を非難する、未熟な自己観を持つ。ギャンブル等への浪費、向精神薬等の過量服薬、リストカット等の自己を傷つける可能性のある衝動性を持つ。常に抑うつ感や空虚感を抱いており、漠然としたイライラ感や、急な感情の変化がある。以上の特徴から、境界性パーソナリティ障害と診断される。
 また、実子に対して身体的虐待を繰り返していたが、最中の記憶はほとんどない。犯行直前から1時間程度の記憶もない。これは、境界性パーソナリティ障害の特徴の一つとして表れた解離性症状と考えられる。
詳細
 被疑者はネグレクトに近い環境で養育され、思春期頃から人生に空虚感や孤独感を抱きリストカットを繰り返していた。近年は境界性パーソナリティ障害の特徴を示し、夫に依存して不安定な感情をぶつけ喧嘩になったり、子供たちに暴力を振るい苛立ちなどを発散させていた。夫が浮気しているのではないかと気になり、寝ている間にカバンや携帯電話をチェックし、知らない電話番号を見つけると電話をかけて相手に文句を言っていた。ストレスに弱いために倦怠感やめまいなどの身体症状や、慢性的な抑うつ感や空虚感を抱いていた。
 犯行前、夫が浮気したかもしれない事実が発覚し、説明を求めると離婚を宣言されたため、被疑者は激しい怒りや悔しさを抱き、心理的に非常に興奮した状態になった。しかしこの間、私物を自宅に持ち帰ろうと準備したり、部屋のオートロックが作動しないように細工したり、合理的で合目的的な行動を取っていた。その後、普段寝室で煙草を吸わない夫に嫌がらせをする意図で、ベッド付近で煙草を2本吸ったが、2本目を吸ってからの記憶が無く、知らない間に自宅に帰っていたと述べた。この間に放火が行われているが、火の始末をしそこなったのか、意図的に火をつけたのかは鑑定の立場からは不明である。後者の場合は、境界性パーソナリティ障害の傾向と、離婚宣言による興奮状態、疲れや不安や焦りが加わり、行動を起こす一因になっていた可能性がある。
5.2.4.6 パーソナリティ障害
 パーソナリティ障害の詳細については2章に記載している。精神鑑定においては、A群(猜疑性、シゾイド、統合失調型)は犯行動機や犯行態様に奇異さや独特のし好性が現れやすい。B群(反社会性、境界性、演技性、自己愛性)は攻撃性や冷淡さなどの情緒的な特徴や行動の衝動的な面が現れやすい。特に境界性は、慢性的な空虚感や満たされない感情が犯行の背景にあることや、解離の特徴が犯行態様や供述時の態様に現れることがある。C群(回避性、依存性、強迫性)は積極的に事件を起こすことは少ないが、従犯のような形で加担することがある。また、パーソナリティ障害は責任能力があるという判断が行われやすい。

 鑑定でパーソナリティ障害を整理する際、「特性領域」と「特性側面」を用いて、どの特徴が突出しており、どのように犯行に関係しているのか記述することが行われる。

特性領域 特性側面
否定的感情 情動不安定、不安定、分離不安感、服従性、敵意、固執、抑うつ性、疑い深さ、制限された感情
離脱 ひきこもり、親密さ回避、快感消失、抑うつ性、制限された感情、疑い深さ
対立 操作性、虚偽性、誇大性、注意喚起、冷淡、敵意
脱抑制 無責任、衝動性、注意散漫、無謀、硬直した完ぺき主義
精神病性 異常な信念や体験、風変わりさ、認知及び知覚の統制不能

 以下のパーソナリティ障害では、追加の評価や考察が行われやすい。

種類 追加の評価や考察
A群
抱いている異常な信念や観念と、妄想との鑑別
統合失調症スペクトラムの整理
統合失調症や妄想性障害との鑑別
自閉症スペクトラム障害との鑑別
B群 境界性
解離と事件の関係
食行動異常や衝動制御の障害との関係
うつ病性障害や双極性障害との鑑別
物質使用やその他の嗜好行動との関係
詐病、虚言、症状の誇張等の評価、供述の変遷や信憑性
反社会性
素行障害の詳細の記述
小児期の早期からの問題行動かどうか
小動物虐待があったか
性的搾取や異常性愛の特徴があるか
物質使用やその他の嗜好行動との関係
詐病、虚言、症状の誇張等の評価、供述の変遷や信憑性
演技性
詐病、虚言、症状の誇張等の評価、供述の変遷や信憑性
自己愛性
詐病、虚言、症状の誇張等の評価、供述の変遷や信憑性

事件概要 路上において通行人を殺害して金品を強取しようと企て、ナイフで殺意を持って被害者の背部、前胸部を数回突き刺し、手提げバッグを強取した。被害者は全治6ヵ月を要する肝刺創・血胸等の障害を負った。
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)犯行当時、反社会性パーソナリティ障害の特徴を有しており、精神刺激薬(メタンフェタミン)の使用障害に罹患していた。
(犯行に及ぼした影響)反社会性パーソナリティ障害の特徴が犯行の動機や態様に顕著に現れていた。精神刺激薬の使用は犯行に特に関係していなかった。
(善悪の判断能力と行動能力)反社会性パーソナリティ障害の特徴が顕著に現れているが、その状態は、善悪の判断能力や行動能力がいささかでも障害されていたとはいえるものではなかった。
診断

反社会性パーソナリティ障害

 被疑者は小児期から、怠学、窃盗、放火、虚言など多様な問題行動を繰り返しており、素行障害に該当する。この様式は成人期以降も継続しており、以上の特徴から、反社会性パーソナリティ障害と診断される。
 事件当時、記憶の欠落を訴え、酒と覚せい剤を使用していたが、客観的な情報から、重篤な酩酊状態や覚せい剤による精神病症状や意識障害をきたしていた状態とは認められない。
 覚せい剤については、長期の使用と使用量の増加、売るはずの覚せい剤に手を出して組織から逃げていたことから、使用障害に該当する。
詳細
 被疑者は、小学1年生からデパートで万引きを行っており、小学3年生から賽銭泥棒、車上窃盗、事務所荒らしなどを繰り返していた。窃盗に入った家では、消化器を噴射したり、置いてあった灯油で火事を起こしていたが、「罪悪感はなく、平気で、証拠隠滅ではなく憂さ晴らしでやった」と回想している。傷害事件で中等少年院と特別少年院に相次いで入り、21歳時には暴力団の組員となり、強盗致傷、窃盗などによって懲役6年の実刑判決を受けた。出所後も詐欺を繰り返し、別の暴力団の組員の舎弟になった。その組員が逮捕され、稼ぎの穴埋めをしなければならなくなったことと、売り物の覚せい剤に手を出していたことから、事務所に戻らない決意をする。あてもなく散歩や食事をして過ごしていたところ、警察から職質を受け、それ以降の32時間について被疑者は記憶がないとしている。31時間目の深夜11時ごろに、路上で見知らぬ女性に背後から接近して、突然ナイフで刺してバッグを奪って逃走した。知人に電話をして迎えに来てもらったところから記憶が戻る。1週間後に別件で逮捕され、目撃証言や遺留物、DNA鑑定の結果などから犯人と特定されて再逮捕された。
 被疑者は犯行時の記憶が無いとしているが、合理的に説明する医学的な疾患は認められていない。また、酒と覚せい剤の影響についても、摂取量はさほど多くなく、想起不能が1日以上におよび、しかも突然、記憶がある部分が始まり、その時には他覚的にも自覚的にも薬物の影響が認識されないというのは不合理である。さらに、想起できないとされる期間中に行われたとされる犯行は犯罪として不合理な部分が無い。また、記憶が無いとされる期間中にしていた行為を、記憶があるとされた期間中に仲間に対して話していた。事件の後に事件について想起できなくなっているということであり、責任能力に関係するものではない。また、記憶障害の範囲は事件の前後にのみ限局しすぎており、想起すると不利な内容であることと、想起できる内容が時によって変化する特徴があることから、健忘を装っているか、都合が悪いことは思い出しにくいという犯罪者の心理によって説明されるものである可能性がある。
5.2.4.7 認知症・器質性精神障害
 認知症・器質性精神障害は、検査によって診断や重症度を客観的に示すことができる。脳機能画像は正常所見との相違が明白であるが、視覚的印象と実質的な所見は別次元であるにもかかわらず、法廷で美しいカラー画像を見るだけで幻惑させられることがある(クリスマスツリー効果)。

 以下の事例は、裁判員裁判において心神耗弱が認定され、懲役3年、執行猶予5年の判決になったものである。

事件概要 70歳代の被疑者が、寝たきりの妻をネクタイで絞殺した
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)犯行当時、被疑者はアルツハイマー病だった。
(犯行に及ぼした影響)犯行動機は他者からして納得いくものではなく、犯行にはアルツハイマー病の一症状である判断力低下に直結する支配観念がきわめて大きな影響を与えた。
(善悪の判断能力と行動能力)知能検査の結果から善悪の判断能力と行動能力は失われるレベルではないと思われるが、支配観念によって判断能力が低下し著しく障害されていた。
診断

晩発性アルツハイマー病型認知症(コード:F00.1 診断基準:ICD-10)

 診察及び認知機能検査所見から記憶障害を含む認知機能の障害を、CTスキャンから原因としての脳の所見が証明されたため、晩発性アルツハイマー病型認知症と診断される。晩発性は65歳以後に発症したことを示し、重症度は中等度である。
詳細
 診察においては、診察に協力的で終始穏やかだった。自身の置かれた状況の認識は障害されており、日付を誤答したほか、精神鑑定の診察をしているという認識があいまいだった。記憶障害の存在は問診だけからも明らかで、詐病ではなかった。CTスキャンによって、大脳皮質全般に軽度の萎縮が認められた。知能検査(WAIS-Ⅲ)にて、全検査IQ64、言語性IQ71、動作性IQ62で、同年齢の集団中最下位1%の成績だった。記憶検査(WMS-R)にて、言語性記憶85、視覚性記憶63、一般的記憶75、注意/集中力68、遅延再生55であり、標準値が100であることから、記憶機能全般の低下が認められた。臨床的認知症尺度(CDR)とWAIS-Ⅲの結果から、認知症は中等度であると示された。
 被疑者は被害者に対して恨みのような悪感情は持っておらず、被害者の遺体にも虐待の跡は一切認められていない。犯行の動機は被疑者自身が、お金に対する異常な心配、介護疲れ、無理心中と述べているが、認知症によって捻じ曲げられている可能性があり、知人の証言と照らし合わせるとお金に対する心配が相対的に重い。ただし、客観的に見て経済的に困窮していたとは認められなかった。被疑者はもともとお金にこだわりがあったため、認知症がもともとの性格が先鋭化し、支配観念がきわめて大きな影響を与え、善悪の判断を凌駕したと考えられる。
5.2.4.8 知的能力障害
 重度以上の知的能力障害者(精神遅滞者)は犯罪行為を行うこと自体が稀であるため、精神鑑定で扱うのは軽度から中等度の者であることが多い。裁判においては、中等度の精神遅滞者は心神耗弱を認めるのが通例となっている。刑事施設に収容された精神遅滞者のうち、窃盗が半数を占め、強制わいせつ・同致傷、放火、殺人の構成比が高く、覚せい剤取締法および道路交通法の構成比が低い特徴を持つ。また、入所受刑者の割合は1.1%であり、神経症性障害の2.7%やその他の精神障害の8.5%を下回っており、比較的稀である。

 精神遅滞は、「知的能力の低水準」と「適応能力の障害」と「これらが発達期に明らかになる」ことで診断される。また精神鑑定においては、精神遅滞者は人格が未熟・未分化であり、薬物や心因の要素が加わった際に健常者以上に人格の解体や抑制力の低下が生じやすい。供述においては、コミュニケーション能力の低さに加えて、取調官に迎合しやすかったり、暗示を受けやすい。ビネー式知能検査は知能年齢を算出するが、知能年齢が刑事未成年以下でも責任能力を問う。

事件概要 店で缶ビール等9点を窃取し、別日に別店でスポーツタオル等5点を窃取した
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)犯行当時、被疑者は中等度精神遅滞だった。知的能力に由来する認知、言語、思考だけに留まらず、他者との情緒的な対人関係を構築してゆく能力にも影響を及ぼしており、社会生活上著しい不適応が生じている。
(犯行に及ぼした影響)中等度精神遅滞は認知、言語、思考に対して著しい影響を与えており、被疑者に生理機能に対する欲求が生じた際に、被疑者なりに思考を試みたものの、被疑者の知能やこれまでの経験を駆使したとしても、適切な手段選択をすることが著しく困難な事情にあった。「物を取ってはいけない」という知識はあったが、利害損失を思い描くことも著しく困難であった。
診断

中等度精神遅滞(コード:F71 診断基準:ICD-10)(犯行時、現在)

 中学生生徒指導要録によれば、少なくとも中学生頃には既に学業成績や運動能力に著しい障害が生じており、他者との情緒的なコミュニケーションもほとんどなされていなかった。鑑定の面接においても、言語や意志交換の稚拙さが明らかであり、拒否や防衛と思われる態度の存在等から、他者との信頼関係構築の経験がほとんどなかったように見受けられる。知能検査も全検査IQ43であり、以上から中等度精神遅滞と診断される。
詳細
 被疑者は中学卒業後、窃盗と詐欺(無銭飲食)事件を繰り返していた。関わりを持った障害者労働センターにおいても、熱心に取り組むことはなく、度々突然姿を消して放浪することがあった。
 第1の犯行においては、被疑者が空腹感を募らせていたところ、身体的欲動から食料品を万引きしようと考え、周りの人の目を気にしながら缶ビール2個を両手に持って移動し、ズボンのポケットに入れた。缶ビールを含む食料品9点を窃取した後、店の保安員に声を掛けられた。
 第2の犯行においては、被疑者は炎天下を歩いたことで大量に発汗し、空腹感と体を拭きたい身体的欲動から食料品と手ぬぐいを万引きしようと考え、周囲をきょろきょろ見て上着をたくし上げる等して、スポーツタオル等5点を含む食料品を窃取した後、店の保安員に声を掛けられた。
 アルコールや薬物の摂取はなく、心因になり得るようなストレッサーも存在していたとは言えず、意識清明な状態にあった。いずれも被疑者の自由意思が犯行に介在する余地はなく、犯行の目的は身体的欲動に基づいている。また、被疑者は窃盗が悪いことと知っていたものの、適切な行為を選択する動機付けになり得る思考力が著しく障害されており、過去の検挙歴や知識は十分な反抗動機にならなかった。表面的には悪いことが分かっていたため、犯行時は見つからないように周囲の様子を窺っていたと思われる。 
5.2.4.9 自閉症スペクトラム障害
 発達障害の人と発達障害ではない人の特徴・言動・問題行動の有無の境界線を明確に引くことは困難であることから、「正常発達」から典型的な「Kanner型自閉症」までを連続体とみなした概念である。自閉症スペクトラム障害(ASD)の責任能力判断においては、まだ一定の見解が無いが、一般的には妄想性障害のような事件であっても簡単には心神喪失や心神耗弱と判断されることはない。

 以下の事例は、責任能力については争われず、懲役3年、執行猶予5年の判決になったものである。

事件概要 通行中の女性にカッターナイフを突きつけ、強いてわいせつな行為をしようと企て、徒歩で通行中の被害者に背後から抱きついて口を塞ぎ、畑に連れ込んで押し倒し、カッターナイフをちらつかせながら手で口を強く塞ぐなどの暴行を加え、反抗を抑圧しわいせつな行為をしようとしたが、被害者に抵抗されたためその目的を遂げなかった。正当な理由が無いにもかかわらず、刃体8.15cmのカッターナイフを携帯していた。
鑑定事項・主文
(精神障害の存否、症状)被疑者は自閉症スペクトラム障害に罹患している。被疑者は場の状況を読むなど、情報を処理する能力の低さが認められるが、言語能力の高さから学習、研究、就労は可能であり、障害の程度は軽度と考えられる。
(犯行に及ぼした影響)犯行時の善悪の判断能力は完全に保たれている。善悪の判断に従って行動する能力は、自閉症スペクトラム障害のもたらす性に関する強迫的なこだわりや視点の切り替えの困難さ、ファンタジーへの没入傾向に加え、性暴力自体の持つ嗜好性、フェティシズム傾向が重複しており、性暴力加害行動の抑制といった観点においては障害されていたものの、著しく障害されてはいなかった。
診断

自閉症スペクトラム障害(コード:299.00 診断基準:DSM-5)(犯行時、現在)

 被疑者は幼少期より「相手の気持ちが分からない」「自分の気持ちを話すのも苦手」との自覚があり、客観的にも「真面目過ぎて要領が悪い」「環境になじむまで時間がかかる」「人間関係の輪が広がらず親友がいない」特徴がみられ、非言語的コミュニケーションや対人的相互反応の質的な障害が認められる。また、女性の脚への強固なこだわりと好みのタイプの女性を見ると襲う場面が頭に浮かび、視点の転換ができず、性暴力を達成しようとするなどの、強迫的で限局化された精神活動と行動の様式も有している。また、心理検査の結果や、幼少時の聴覚における過敏性や緊張場面でのパニック、進学や転居などの移行期での不適応状態、鑑定中の視線の合いにくさや丁寧すぎる細部にこだわった話し方の特徴から、自閉症スペクトラム障害と診断される。
 心理検査は、WAIS-Ⅲにおいて、総合的知能指数は96と正常域だが、言語性知能指数は115、動作性知能指数は74と有意差が認められる。また、自閉症スペクトラム指数(AQ)は42点(カットオフポイント33点)を示しており、総合結果として精神病圏の可能性は低い。
詳細
 被疑者の幼少期は、人間関係を深めようとしない、環境が変わった際になじむまでに時間がかかる特徴を持っていた。大学入学後から「スカート姿の若い女性の脚」への興味・関心が増強し、徐々に「女性の後をつけることを想像し満たされる」「女性を襲うイメージが思い浮かぶ」といった性的空想を抑制できなくなる。修士課程では、女性を脅してその女性の脚を触る場面を想像しながら自慰行為するために、実際に包丁を持っていたところを逮捕される。転居直後であることから、環境との相互作用により不適応状態を起こしやすい自閉症スペクトラム障害の特徴に合致する。大学院の研究生となった際は、見ず知らずの女性の部屋に入って自慰行為をするため、鍵のかかっていない一人暮らしの女性のアパートに不法侵入して執行猶予付判決を受けている。性暴力は、求める刺激と行動がエスカレートする特徴があり、また、自閉症スペクトラム障害における性犯罪は、フェティシズムと小児性愛のような特殊な形をとることが多い。被疑者の一連の事件はこの過程にあることと、特徴を持つことは明らかである。
 犯行の1年前頃から自慰行為の頻度が増え、外でスカート姿の好みの女性に合うと目で追ってしまい、思考を切り替えられずに、襲う場面を想像しながら後を追いかけることがあった。被疑者は対処するために、性的空想に基づく自慰行為を行っていたが、逆に性衝動や性的空想を強化してしまったと考えられる。その頃、事件の話が伝わり進学が破談になったり、応募論文が落選したり、交際していた女性と別れるなどストレッサーが重なり、気分の落ち込みや将来への絶望感を感じる中で性衝動が高まった。駅で好みの女性を物色するようになり、数日かけて襲う対象を決めた。出勤時に犯行道具を携帯し、仕事終わりに被害者の後をつけ、犯行に及んだ。被害者が重いと言って抵抗するのを見て、もう無理だという思いと、かわいそうだという気持ちを抱き、逃走した。逮捕されるまでの約1ヵ月、周囲に犯行について語ることはなく、犯行後の自己防御的行動が認められる。